北の誉酒造りミュージアム 酒泉館
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北の大地に受け継がれる創業の想い。「北の譽」が誕生するまで。
 歴史に「もしも」というものはありません。しかし、「北の誉」の誕生は、創業者・野口吉次郎と多くの人々との出会いが無ければ、到底あり得なかったことでした。人の縁とはまことに不思議なものですが、大切なことはその出会いが感謝の思いとともに後々にまで生かされ、そこから新たな関係が芽吹いていくことではないでしょうか。「御陰の請け合い」、すなわち、感謝の念を忘れず、人と人が互いに共存しながら生きていくことは、店祖・野口吉次郎が、生涯を通して実践したことでした。
郷里金沢での苦い経験−泡と消えた酒造りの夢
 吉次郎は安政3年(1856)加賀の生まれ。小さい時からきかん気が強く、利発なことで知られていましたが、そのことも一因となり、4度におよぶ養子縁組にことごとく失敗。15歳の時、「こんなことではろくな者になれない」と、自ら醤油屋直江源兵衛方に奉公に上がり、醤油醸造の技術を学びます。ここでの6年間が、吉次郎のその後の運命を決定づけることになるのでした。

 奉公が明け、独立して金沢に醤油の小売店を開いた時、吉次郎は26歳になっていました。3歳年下の“のゐ”を妻に迎え、蔵を建てて自らも醤油醸造を手がけるようになり、商売は順調に行くかに見えましたが、明治14年(1881)に行われた松方財政政策により、日本経済に大きなデフレの波が押し寄せていることに、まだ若い吉次郎は気付いていませんでした。醤油は仕込んでから数年を待たなければ商品にはなりません。デフレが進んだ結果、生産原価を大きく下回る値段でなければ醤油は売れなくなり、負債は膨れ上がる一方。これを挽回するために一時は酒造にも着手しますがこれも失敗。ついには蔵、家、商品も人手に渡り、それでもなお150円の借金を背負う羽目になってしまったのです。
活路を求めての渡道−初めて自分の無力さを知る
 明治19年(1886)7月17日、吉次郎は初めて小樽の地を踏みます。その傍らには、死ぬまで苦楽をともにと誓い合った妻“のゐ”と、5歳の長男・吉太郎を連れていました。懐には僅かな金と、一通の「添書」。これは渡航の船中で出会った利尻島鴛泊の某漁場の親方と称する人が「小樽の山田町に、小祝長次郎という私の知人がいるから、相談に乗ってもらうといい」と、わざわざ吉次郎のためにしたためてくれたものでした。

 吉次郎の窮状を聞いた小祝長次郎はまず古着の行商を勧め、元手の無い吉次郎のために、業者に掛け仕入れの話をつけ、さらに古着競場の保証人にまでなってくれました。小祝氏の手配で入れた6帖一間のあばら屋に住み、古着の行商の他、石工、左官の臨時人夫と、吉次郎は生きるために必死で働き、“のゐ”もまた幼い吉太郎の手を引きながら、農家の手伝い等をして助けました。しかしやがて秋風が吹き始める頃になると、北前船や半年暮らしの商人たちは内地へ帰り、小樽はもちろん、近郊は閑散となります。初めて迎える北海道の厳しい冬、仕事の当てがなくなった吉次郎は、艀に石炭を積み込む仕事をしてしのぎました。これは「沖仲仕」とも呼ばれ、当時の浜ではもっとも過酷で、危険を伴う仕事です。骨まで凍るような風雪と激しい疲労のため、艀に渡した板から足を踏み外して命を落とす者もいた中、吉次郎はこの厳しい試練に耐えました。過去の苦労には言葉の少ない吉次郎でしたが、よほど辛かったのでしょう。後年になって「この時になって初めて自分の無力、人の無常なることをつくづくと感じた」と回顧しています。
必死に生きる吉次郎と、恩人・彦三郎氏との出会い
 北海道にもようやく遅い春が訪れた頃、吉次郎は、石炭置場の見回り人で、普段から懇意にしていた畑という人物から、「色内町の丸ヨ石橋商店という呉服屋で醤油造りのできる人を求めているらしい」という話を聞きます。
 丸ヨ石橋商店の店主・石橋彦三郎氏は江州彦根(現滋賀県彦根市)に続く商家の出身。小樽で既に成功し、大勢の使用人を雇って呉服の他、海産物、荒物などにも商いを広げていました。

 そこへ、人夫姿に腰帯という異様な風体で現れたのが吉次郎でした。畑氏に「醤油杜氏」の話を聞いた数日後のことです。

 「お願いします」 「ならん!」 「どうかお願いです」 「帰った、帰った」

 吉次郎と丸ヨ石橋商店の使用人の間で、このような押し問答がどれほど続いたことでしょう。そうこうするうちに、石橋氏が何かの用事で店先に出てきたことで、やっと面接がかないました。

 生き馬の目を抜くような厳しい近江商人の社会で幼少期から過ごした彦三郎氏、信心深い土地で、農家の4男として人を疑うこと無くのびのびと育った吉次郎。富も社会的地位も、あらゆるものを持っていた彦三郎氏に対し、吉次郎が持っていたのはただ醤油造りの技術と、愚直とも言えるほどの誠実さだけでした。

 「醤油造りの算段を立ててみよ」。彦三郎氏に言われるまま、吉次郎が出した収支計画書は、金沢での苦い経験から、利益は少ないものの堅実なものでした。これが並み居る杜氏希望者の中で彦三郎氏の眼鏡にかなったこと、さらに小祝長次郎氏が「野口については自分がどこまでも責任を負うから是非使ってもらいたい」と保証人に立ってくれたことで、吉次郎は無事丸ヨ石橋商店に雇われることになります。それにしても、利尻島某漁場の親方といい、小祝氏といい、なぜ吉次郎をこれほどまでに信頼し、後押ししてくれたのでしょう。今となっては「良き出会いに恵まれた」としか言えませんが、彦三郎氏との出会いもまた、吉次郎にとって「運命」とも言うべきものでした。
辛抱の末、野口商店を開業−長男・吉太郎の夭逝
 
  写真:稲穂町に新築移転した当時の店舗の様子(明治30年)
 幸運にも丸ヨ石橋商店に入店できた吉次郎でしたが、彦三郎氏から出された条件は、「家族3人の食い扶持は保証するが、醤油ができ上がるまでの3年間は無給」という厳しいもの。店の住み込みとなり、食べ物に困らなくなっただけ、人夫暮らしよりは幾分マシでしたが、床屋へ行くことも、着物を買うこともかないません。呉服部の店員たちは、貧しい身なりで、真冬でも素足で歩く吉次郎を指して「鶏が歩いていく」と嘲笑しましたが、そのような仕打ちを受けながらも誠心誠意の働きぶりを示す吉次郎に対し、彦三郎氏は一向に甘い顔を見せず、かえって難題と思われる仕事を要求し、吉次郎を困惑させることもしばしばでした。しかし、無理難題に耐え、ひたすら従順に主人に仕えながら仕事に励んだこの時期が、吉次郎の人間形成に大きな影響を与えたのです。

 吉次郎の醤油は2年目の秋に出来上がりました。しかし、呉服商が売り出した醤油など誰も見向きもしません。そのうち、呉服部門の幹部から「採算の取れない醤油づくりなど早々に止めた方が良い」という声が聞かれ始め、困り果てた吉次郎は、大きな八升樽でなく、使い勝手の良い一升・二升の樽で届け売るアイデアを思いつきます。当時の醤油は、人数の多いところで八升樽詰を、買えないところでは量り売りで小買いするが普通でした。しかし、特に夏場は八升樽では黴生えが起き、さりとて小買いだと自分で買いに行かなければならなりません。ところが一升・二升の樽なら回転が早いから黴生えの心配はないし、さらに軽量で扱いやすい上に、配達までしてくれるのです。この「お客様本位」の考えに立った吉次郎の醤油は瞬く間に評判となり、3年の月日が流れた頃、醤油は上々の人気となっていました。

 そんなある日、吉次郎は主人の彦三郎氏から呼び出され、思いもかけぬ言葉をかけられます。「この3年間、よく辛抱してくれた。悪いことだと思ったがお前の心底を試すためになんども過酷、非情な扱いをし、いつ根をあげるかと見ていたがとうとう辛抱しとおした。実に見上げたものだ。厚く礼を言いますぞ」。彦三郎氏は、これまで一度たりとも見せなかった心からの笑顔とともにこう語り、今後醤油業についての一切を吉次郎に任せ、100円までの資金を自由に使えるよう取り計らったのです。当時の小樽で100円と言えば、新築一戸の建つ金額ですから、相当な権限委譲と言えるでしょう。後年の吉次郎はよく、「勝つことを知って、負けることを知らないものを阿呆というものじゃ」と語っています。手柄を立てても決して奢ること無く、ただひたすらに誠心誠意を尽くすという、このいわば「負けの哲学」こそ、彦三郎氏に商いの教えを受けながら、吉次郎が独自に到達した境地だったのではないでしょうか。

 こうして、石橋氏の信任を得た吉次郎は、明治23年(1890)9月、手宮裡町に醤油販売店"丸ヨ野口商店"を開設。しかし、その喜びもつかの間、翌年4月には長男・吉太郎が夭逝してしまいます。冬になれば雪が吹き込み、寒い、寒いと泣く吉太郎を抱きしめながら、いつかは雪の入らない家に住もうと頑張ってきた吉次郎。その悲しみと悔悟の念は、貧しい人々、困っている人々への温かな眼差しとして、終生変わること無く向けられていくのでした。
多くの人々に喜ばれる酒を 想いを込めたその名は“北の譽”
 
 明治30年(1897)、吉次郎は稲穂町に店舗を新築移転。丸ヨ石橋商店から独立し、一本立ちします。しかし、暖簾分けにあたって吉次郎は、「同じ醤油・味噌では、恩義のある石橋のご主人様に申し訳ない」と、新しい事業を考えていました。この頃、小樽は急速に栄え、人口は年々増加。人が増えれば、必然的に日本酒の需要が増えます。しかし、内地から入ってくる酒は一般庶民にとっては高嶺の花。かつての吉次郎がそうであったように、最下層の人々にはとても手に入るものではありませんでした。「そうだ、酒だ。この小樽の水を使って、多くの人々に喜ばれる酒、生活に負担をかけない値段で、日々の暮らしの潤いとなる酒を造ろう」。吉次郎はこう考えたのでしょう、地酒醸造に着手することを決意します。これには、「西の神戸、東の小樽」とまで言われた小樽の水の良さ、そして丸ヨ石橋商店時代から、この水で培った醸造技術が大いに生かされたことは言うまでもありません。そして4年(4回)にわたる試験醸造を繰り返し、明治34年(1901)、最初の酒を醸造することに成功します。
 この時の吉次郎の気持ちはいかばかりのものだったでしょうか。その胸に去来したのはおそらく、利尻の漁場の親方、小祝長次郎氏、石炭積みの同僚、郷里の父母、知人らの、「吉次郎、よくやった」と優しく微笑む懐かしい顔、顔、顔...。
 "北の譽"の命名には、「この北の地で、褒め称えられる人、褒め称えられる酒、褒め称えられる酒蔵であろう」との想いが込められています。そして、この創業の想いは、小樽の水とともに、今も脈々と生き続けているのです。
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