明治19年(1886)7月17日、吉次郎は初めて小樽の地を踏みます。その傍らには、死ぬまで苦楽をともにと誓い合った妻“のゐ”と、5歳の長男・吉太郎を連れていました。懐には僅かな金と、一通の「添書」。これは渡航の船中で出会った利尻島鴛泊の某漁場の親方と称する人が「小樽の山田町に、小祝長次郎という私の知人がいるから、相談に乗ってもらうといい」と、わざわざ吉次郎のためにしたためてくれたものでした。
吉次郎の窮状を聞いた小祝長次郎はまず古着の行商を勧め、元手の無い吉次郎のために、業者に掛け仕入れの話をつけ、さらに古着競場の保証人にまでなってくれました。小祝氏の手配で入れた6帖一間のあばら屋に住み、古着の行商の他、石工、左官の臨時人夫と、吉次郎は生きるために必死で働き、“のゐ”もまた幼い吉太郎の手を引きながら、農家の手伝い等をして助けました。しかしやがて秋風が吹き始める頃になると、北前船や半年暮らしの商人たちは内地へ帰り、小樽はもちろん、近郊は閑散となります。初めて迎える北海道の厳しい冬、仕事の当てがなくなった吉次郎は、艀に石炭を積み込む仕事をしてしのぎました。これは「沖仲仕」とも呼ばれ、当時の浜ではもっとも過酷で、危険を伴う仕事です。骨まで凍るような風雪と激しい疲労のため、艀に渡した板から足を踏み外して命を落とす者もいた中、吉次郎はこの厳しい試練に耐えました。過去の苦労には言葉の少ない吉次郎でしたが、よほど辛かったのでしょう。後年になって「この時になって初めて自分の無力、人の無常なることをつくづくと感じた」と回顧しています。 |
 |
北海道にもようやく遅い春が訪れた頃、吉次郎は、石炭置場の見回り人で、普段から懇意にしていた畑という人物から、「色内町の丸ヨ石橋商店という呉服屋で醤油造りのできる人を求めているらしい」という話を聞きます。
丸ヨ石橋商店の店主・石橋彦三郎氏は江州彦根(現滋賀県彦根市)に続く商家の出身。小樽で既に成功し、大勢の使用人を雇って呉服の他、海産物、荒物などにも商いを広げていました。
そこへ、人夫姿に腰帯という異様な風体で現れたのが吉次郎でした。畑氏に「醤油杜氏」の話を聞いた数日後のことです。
「お願いします」 「ならん!」 「どうかお願いです」 「帰った、帰った」
吉次郎と丸ヨ石橋商店の使用人の間で、このような押し問答がどれほど続いたことでしょう。そうこうするうちに、石橋氏が何かの用事で店先に出てきたことで、やっと面接がかないました。
生き馬の目を抜くような厳しい近江商人の社会で幼少期から過ごした彦三郎氏、信心深い土地で、農家の4男として人を疑うこと無くのびのびと育った吉次郎。富も社会的地位も、あらゆるものを持っていた彦三郎氏に対し、吉次郎が持っていたのはただ醤油造りの技術と、愚直とも言えるほどの誠実さだけでした。
「醤油造りの算段を立ててみよ」。彦三郎氏に言われるまま、吉次郎が出した収支計画書は、金沢での苦い経験から、利益は少ないものの堅実なものでした。これが並み居る杜氏希望者の中で彦三郎氏の眼鏡にかなったこと、さらに小祝長次郎氏が「野口については自分がどこまでも責任を負うから是非使ってもらいたい」と保証人に立ってくれたことで、吉次郎は無事丸ヨ石橋商店に雇われることになります。それにしても、利尻島某漁場の親方といい、小祝氏といい、なぜ吉次郎をこれほどまでに信頼し、後押ししてくれたのでしょう。今となっては「良き出会いに恵まれた」としか言えませんが、彦三郎氏との出会いもまた、吉次郎にとって「運命」とも言うべきものでした。 |
 |
| |
 |
| |
写真:稲穂町に新築移転した当時の店舗の様子(明治30年) |
幸運にも丸ヨ石橋商店に入店できた吉次郎でしたが、彦三郎氏から出された条件は、「家族3人の食い扶持は保証するが、醤油ができ上がるまでの3年間は無給」という厳しいもの。店の住み込みとなり、食べ物に困らなくなっただけ、人夫暮らしよりは幾分マシでしたが、床屋へ行くことも、着物を買うこともかないません。呉服部の店員たちは、貧しい身なりで、真冬でも素足で歩く吉次郎を指して「鶏が歩いていく」と嘲笑しましたが、そのような仕打ちを受けながらも誠心誠意の働きぶりを示す吉次郎に対し、彦三郎氏は一向に甘い顔を見せず、かえって難題と思われる仕事を要求し、吉次郎を困惑させることもしばしばでした。しかし、無理難題に耐え、ひたすら従順に主人に仕えながら仕事に励んだこの時期が、吉次郎の人間形成に大きな影響を与えたのです。
吉次郎の醤油は2年目の秋に出来上がりました。しかし、呉服商が売り出した醤油など誰も見向きもしません。そのうち、呉服部門の幹部から「採算の取れない醤油づくりなど早々に止めた方が良い」という声が聞かれ始め、困り果てた吉次郎は、大きな八升樽でなく、使い勝手の良い一升・二升の樽で届け売るアイデアを思いつきます。当時の醤油は、人数の多いところで八升樽詰を、買えないところでは量り売りで小買いするが普通でした。しかし、特に夏場は八升樽では黴生えが起き、さりとて小買いだと自分で買いに行かなければならなりません。ところが一升・二升の樽なら回転が早いから黴生えの心配はないし、さらに軽量で扱いやすい上に、配達までしてくれるのです。この「お客様本位」の考えに立った吉次郎の醤油は瞬く間に評判となり、3年の月日が流れた頃、醤油は上々の人気となっていました。
そんなある日、吉次郎は主人の彦三郎氏から呼び出され、思いもかけぬ言葉をかけられます。「この3年間、よく辛抱してくれた。悪いことだと思ったがお前の心底を試すためになんども過酷、非情な扱いをし、いつ根をあげるかと見ていたがとうとう辛抱しとおした。実に見上げたものだ。厚く礼を言いますぞ」。彦三郎氏は、これまで一度たりとも見せなかった心からの笑顔とともにこう語り、今後醤油業についての一切を吉次郎に任せ、100円までの資金を自由に使えるよう取り計らったのです。当時の小樽で100円と言えば、新築一戸の建つ金額ですから、相当な権限委譲と言えるでしょう。後年の吉次郎はよく、「勝つことを知って、負けることを知らないものを阿呆というものじゃ」と語っています。手柄を立てても決して奢ること無く、ただひたすらに誠心誠意を尽くすという、このいわば「負けの哲学」こそ、彦三郎氏に商いの教えを受けながら、吉次郎が独自に到達した境地だったのではないでしょうか。
こうして、石橋氏の信任を得た吉次郎は、明治23年(1890)9月、手宮裡町に醤油販売店"丸ヨ野口商店"を開設。しかし、その喜びもつかの間、翌年4月には長男・吉太郎が夭逝してしまいます。冬になれば雪が吹き込み、寒い、寒いと泣く吉太郎を抱きしめながら、いつかは雪の入らない家に住もうと頑張ってきた吉次郎。その悲しみと悔悟の念は、貧しい人々、困っている人々への温かな眼差しとして、終生変わること無く向けられていくのでした。 |
 |